風花猫の雑学ブログ🐾

ちび学問と、お茶飲み話です。📚️🍵

恋とか愛とか、考えてみます②🌀

今日もお疲れ様です、風花猫です。⛄

ご訪問頂いております皆様、いつもありがとうございます!(*´∀`)

 

寒いですね…。皆様、体調にお変わりはございませんでしょうか?

今年も後1ヶ月少し。なんとか乗りきって参りましょう…!

 

今回は同名記事の後編と致しまして、愛について、なんやかんやと。未熟な見解(独断と偏見)を書き散らかせて頂きます。

 

やっぱり注意喚起とお願い事です…。こうした未熟な考察や、そもそもテーマが苦手な方は、回れ右!をお願い致します…。

 

今回の逃げ道(?)はこちらです…💦よろしければどうぞ…!📖

 

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さて、改めまして。記事の途中で口調が乱れます事も、どうかご容赦を…。

 

恋とか愛とか、考えてみます。

 

愛の事。実はここ数日、この記事を書くにあたって悩んでいました。

 

何故ならば、愛の定義が広すぎるから。

 

友人愛、親子愛、家族愛、兄弟愛、隣人愛、博愛。

定義が重なる部分はあるものの、まだまだありますね…。

 

ひとまず定義に悩んだ時は、辞典を参照してみます。

 

【愛】広辞苑より

①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。

②男女間の、相手を慕う情。恋。

③かわいがること。大切にすること。

④このむこと。めでること。

⑤愛敬(あいきょう)。愛想(あいそ)。

⑥❲仏❳愛欲。愛着(あいじゃく)。渇愛。強い欲望。十二因縁では第8支に位置づけられ、迷いの根源として否定的にみられる。

キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと。

 

ちょっと脱線しますが、仏教用語【十二因縁】につきまして。

 

【十二因縁】ブリタニカ国際大百科事典より

仏教用語。十二縁起ともいう。迷いの世界の因果関係を12種の項の系列によって説明したもの。(1)無明(迷いの根本となる無知)。(2)行(無明に基づき、次の識を形成する働き)。(3)識(受胎した時の最初の一念)。(4)名色(母胎中で発育する心的なものと肉体的なもの)。(5)六処(6種の感覚器官が整って母胎を出ようとする状態)。(6)触(物に触れて知る感触のみの状態)。(7)受(対象を識別感受する状態)。(8)愛(欲望によって対象を判断すること)。(9)取(自分の欲望に執着すること)。未来の結果としての(10)有(生存)と(11)生と(12)老死。順次に前のものがあとのものの原因となっている。この12種の項の系列が釈尊の悟りの内容とされ、苦しみを断つためには、その根本的原因である無明から順次に滅されなければならないと説かれた。

 

…うん、まず驚きましたのは、広辞苑の定義に「恋」が含まれていた事で…。

 

それと共に、仏教用語では「愛」は「否定的」に捉えられている、という考え方にも驚きました。

 

キリスト教はまた異なる考え方であり、この点については網羅しきれないので割愛を…。あ、割愛にも「愛」が入ってますね…。

 

ともあれ、これは大変興味深い事です。疑問が次々浮かぶと共に、調べていて興味が尽きませんね…。

 

ああ、ブログの文章をぽちぽち打つのがもどかしい…。

ノートか何かに走り書きした方が早い…。いやいや…。

 

ともあれ。宗教と愛に関するお話で言うなら、仏教・キリスト教に留まらず、ヒンドゥー教のカーマ*1儒教(仁)にも見られるそうで…。

 

古代ギリシアにおける愛は「エロス」、キリスト教では「アガペー」(新約聖書で「愛」を意味するギリシア語だそうです)を指しますし、ともかく古くより存在する考え方ですね…。

 

このように世界的な考え方と言いますか、国や宗教、文化を越えて考えられてきた「愛」ですが、改めて風花猫個人のレベルに戻して考えてみます。

なんだか急にちっぽけなレベルに…orz;

 

愛について考える時。それは真っ直ぐな時と、そうではない時の二つに分かれます。

 

真っ直ぐな時は、純粋に誰か(或いは何か)を愛する時。

そうではない時は、愛が形を変えた時。

 

前者はともかく、後者については解説を…。

本当に「独断と偏見」で失礼致します…。

 

愛は、時として歪な形を取る事もあります。

それは例えば「執着」に変わり、相手や本人を苦しめる。

 

「愛憎」という言葉が何故「愛」と「憎しみ」から成り立つのか、昔はよく分かりませんでした。

 

けれど、今は少しだけ分かるような気がします。

頭で色々考えるだけでは分からない、体験を経た結果です。

 

…ここまで読んで下さったお優しい皆様に、どうか言い訳をさせて下さい…。

 

大前提として、私は視野を広げる為に、自分の考えや気持ちを整理したり、なるべく偏らないようにしようと心掛けています。

 

愛やら憎しみやらと申しましたが、それはあくまで『考察した結果』のお話であり、感情と分けて考えているつもりです…。

 

感情は兎角、考察が難しい。恐らく「愛」を「理性」で考察するのではなく、感情から捉えたなら。

 

それこそ、収拾がつかなくなってしまいそうな気がするのです。

…え?風花猫の感情云々は出さずにしまっておいた方が良い?

若者言葉(?)で言えば「それな」です…(笑)

 

…はぁ。真面目に考えたいのですが、たまに冗談めいた事を言わないと、怖くなってしまう自分がいます…。

 

自分の考えや気持ちを言葉にして出すという事は、それを目にした(或いは聞いた)方が嫌な気持ちになられてしまうかもしれない、という事と表裏一体で。

 

私は真っ直ぐ自分を出す事を恐れている上、今回のテーマである「愛」についての見解を記す事は、自らの内側にも関連する事であり、平たく言えば恥ずかしいのです。

 

…ここで少し、疑問を整理してみます。

私が愛について考える時に浮かぶ、一つの疑問。

 

突然ではありますが、愛は数多の障壁・困難を乗り越えられるものなのでしょうか…。

 

…なんて疑問提起しつつ、答えは書ききれない難しいお話です…。

 

いつも思うのです。物事や心の動きは多面的であり、シンプルには捉えきれないのだと。

 

けれど、誰かを「真っ直ぐ」愛する時。

きっとそこには、純粋な愛の気持ちがあるのだとも思うのです。

 

では、その愛が揺らいだり、「変化する(=形を変える)」時。

何故、揺らいだり、変化するのでしょう…?

 

これは正直、ケースバイケースと言ってしまえば、身も蓋もないですが…。個々の様々な状況や事情が大きく関わりますね…。

 

ただ、気を付けなくてはならない事もあります。

歪な形は、決して誰もいつくしむ事にならないから。

その事に気が付く事こそ、実は難しいのかもしれない、と。

 

…考えすぎて、糖分が足りなくなってきました。

ドーナツが食べたい気分です…。🍩🍴

 

さておき。うーん、愛が何故歪な気持ちと密接に関わるのか。

ここはかなり闇を含みそうですね…。

 

頭と心をシンプルにしましょう…!私は真っ直ぐ「愛」を捉えたいと共に、ブロガー様や素敵なブログの数々を大切に考えています。

 

恥ずかしくて言えないですが、私が愛する物事の中には、私自身が大切にしたい事が沢山あるのです。

 

それは歪な形に変わる事はなく、大切だと思う事が出来る。

だからこそ、真っ直ぐに捉えられると感じます。

 

あ、真っ直ぐに言える事がありました。

私は自然を愛していますし、生き物を愛しています…!

自然が「好き」と自然を「愛する」は、殆ど同義なのか…?

 

疑問ジャンプが尽きなくなってしまいますので、この辺で…💦

それでは、ここまでお読み頂き、ありがとうございました!🥰

 

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*1:インド神話の愛の神で、後の仏教に「愛染明王」として取り入れられました。